だいたいハタチ

歳は18。勝手な肩書きはデザイナーとおもちゃクリエイター。かいじゅうのおもちゃの可愛さを分かる同士求ム。

沖縄の移民 その2 ハワイ まだ移民は始まらないよ 編

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こんにちは、だいたいハタチです。

春になり、新一年生になりました。

 

たくさんの友達もできました。

大きくなったら、友と盃を交わしつつ、未来に向かって無我夢中になっていたあの頃の他愛もない話をして夜明けを迎えたいです。

 

盃を交わすまであと2年です。

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(だいたい、こんな顔)

 

移民史に興味があるだいたいハタチ。

沖縄の移民が最初に選んだ土地はハワイ。

 記事一つ分では全然まとまらないので4回に分けて出していくヨ!

 

第一弾は、“ハワイ”という土地の歴史を解明していこう!

 

 

始まりの地 ハワイ'イ。

ハワイの発見

18世紀の産業革命で世界の頂点に君臨していたイギリスは、さらなる資源を求めて海に進出したのでした。

 

イギリス人の航海探検家キャプテン・クック船長もその一人です。

 

1778年。彼は太平洋の航路を開拓するという野望を掲げて海を突き進んでいたある日、

ハワイのオアフ島、カウアイ島、ニイハウ島を発見しました。

(一部の文献にはオアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島と掲載されていた。)

 

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キャプテン・クックは、この島々を“サンドウイッチ群島”と名付け、世界に発信したことで、島の存在が認知されていくのでした。

(これまでにハワイ諸島に西洋人の難破船が漂流した過去や、クックが訪れる200年以上も前に、すでにハワイが描かれていた海図も存在するが、クックは明確にサンドウイッチ諸島として発信したことで、“第一発見者”として語られている。)

 

ハワイは戦国時代真っ只中。

 

 

 神様がやってきた!

1779年。キャプテン・クックは再びハワイに訪れました。

今度はハワイ島のケアラケクア湾(意味:神への通路)に姿を表したクック。

 

大きな白い帆を張って神への通路からやってきたクックたちは、ハワイの先住民に神様“ロノ”がやってきた、と思われ歓迎されました。

 

先住民にとって

  • 季節はちょうど、神様“ロノ”へのお祭りをする マカヒキの時期。
  • “ロノ”の象徴はロノマクアと言われる十字の棒に白い布をかけたもの。
  • そして、ハワイの先住民で“ロノは再来する”と予言されていた。

クックたちは神様“ロノ”がやってきたと思い込むにはあまりにも条件が揃いすぎていたのでした。

 

その後、キャプテン・クックはハワイの先住民とのちょっとした揉め事で先住民に襲撃され、命を落としたのでした。

 

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キャプテン・クック、ボタンが3つ足りないの。)

 

 

 西洋人がもたらしたもの

キャプテン・クックによると、当時ハワイに生息していた生き物は

ネズミ、犬、白鳥、コウモリ、豚などにすぎなかったそう。

 

クックは1778年(1回目のハワイ訪問)でニイハウ島にヤギを放ちました。

 

それからというもの西洋人は(日本からもあるけど)ハワイに多くのものを輸入してきました。

牛や馬、ムカデ、ミツバチなどの動物や

柑橘類、ぶどう、マンゴー、チョコレートなどの植物たち、

 

性的感染症やペストなどの伝染病、

 

 

そして、武器です。

 

18世紀。まだまだハワイは戦国時代です。

各地で、島のトップを巡る争いや、他の島を侵略する争いが行われていました。

 

ハワイアンのトップたちは、西洋人が持ち込んできた武器に目をつけて、勢力を拡大することにしました。

 

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(カメハメハメハメハ〜)

 

のちに“天下統一”を果たすことになる、カメハメハ大王率いる軍団は

  • 西洋人を味方につける
  • 西洋人からみっちりと武器の使い方を学ぶ
  • 独自のルートで武器をしっかり確保する

戦いへの備えを綿密に行っていったことで

1796年、その萌芽を生み出しハワイ王国が誕生したのでした。

 

カメハメハ大王は別名、“太平洋のナポレオン”とも言われています。

 

 

捕鯨時代の到来

捕鯨船がやってきた!!!!

時は進んで、1819年。

ワイ島のケアラケクア湾に、捕鯨船がやってきました。

アメリカからやってきたバラエナ号 “Balaena” とイクエーター号 “Equator”です。

 

電気も、ガスもない時代なので、当時の先進国はクジラを捕まえて油を抽出し、鯨油としてエネルギーを売買していました。

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(無題)

   

ハワイに捕鯨船がやってきた時には、すでに大西洋のクジラは捕獲し尽くされており、太平洋のクジラを争奪するべく、アメリカ、イギリスのなどから捕鯨船が連日やってきました。

 

先進国は、捕鯨漁場の支配権を巡って争っては、ハワイ侵略も目論んでいました。

 

 

ハワイ争奪戦

文献によると、

“Honolulu, Lahaina, and to a lesser extent, Kealekekua Bay and Hilo, became welcome stops for whalemen. English whaling and sealing crews knew of these places at least by 1810, as their Southern fishery made its delayed but insistent push north of the equator.”

(ROBERT LLOYD WEBB, 『ON THE NORTHWEST Commercial Whaling IN THE Pacific Northwest 1790=1967』, p.31 l.24-27)

 

 

“(前略)ホノルル、ラハイナ、比較的規模は小さいがケアラケクア湾、そしてヒロは捕鯨船の停留所となった。イギリスの捕獲船の乗組員たちは、少なくとも1810年には、クジラやアザラシがこの水域にいることは知っていたが、南部の漁業者が彼らの進出を遅らせていた。しかしアメリカのエクエーター号は北へ押し切ったのだった。”

 

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(ちなみに、最盛期には年に596隻もクジラを捕まえる船がやってきた…!)

 

だいたいこんなニュアンス。(翻訳力上がったら直しに来るね)

 

この文献が表しているのは、アメリカの野心さでした。

 

 

“イギリスは、ハワイにクジラがいるっていう情報を知っているのにも関わらず、進めなかった。

でも、アメリカは insistent (しつこい、執拗)に push(押し切る)した。”

 

 

かつて、ハワイは2回ほど、イギリスの領土になりました。

1度、ロシアの土地にもなったことがあります。

あと、2回フランスにも。

 

しかし、武力や混乱の中での支配はそう長く続かず、

ハワイとの関係を緻密に練っていったアメリカが、ハワイを州の一部として獲得に至ったのでした。

 

緻密なワザ

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(じわじわと。)

 

じわじわと、ハワイの人々の暮らしの中にアメリカが介入していきました。

アメリカ側から“ハワイ併合条約締結”の締結も要求されるようになりました。

 

ハワイは小さな島国なので、

自国を守るために常にどこかの国に依存する必要がありました。

 

そんな中、ハワイの国王は日本を訪れることにしたのです。

 

世界一周をしたハワイの王様が明治天皇に縁談を持ちかける!?

 

時は、7代目のハワイの王様が国を治めている時代まで進みます。

当時の王様の名前は“カラカウア王”でした。

(カメハメハ一族から選ばれるはずの国王の後継が、流行病で途絶えてしまったため、アメリカ側からの支援を受けて国王になった人物です。)

 

各国から移民を受け入れ、ハワイは製糖業で潤っている頃。

1883年。カラカウア王は、ハワイの窮地を挽回するために世界一周の旅にでることにしました。

 

そして、航路の途中、お忍びで日本にやってきたのでした。

 

(前略)「ハワイ公文書保管局蔵・渡辺七郎『布哇歴史』より引用として、アームストロングの『カラカワ王世界旅行随伴記』の関係箇所を記された。それによれば、

(中略)

  国王のこの計画が日本天皇陛下によって御嘉納になってゐたらハワイは日本領土となる経路をとるに至つたであらう。

とあって、その主要点は、

 一、会談はハワイ皇帝の方から、突然、申し出られた。

 二、その内容は、アメリカのハワイ征服を未然に防ぐ為に、日本の皇室とハワイの王室との間に婚姻関係を結びたいといふ御希望であつた。

 三、その後、明治天皇はこれを謝絶された。

ということであるが、この最後の部分に、明治天皇が、もし、これを御嘉納の場合は、ハワイは将来、日本の領土になっていたであろう、と記されていることである。

(中略)

もし、天皇がこれを御嘉納の暁には、ハワイに野心満々のアメリカが、必ず、両腕を広げて日本の前に立ちはだかり、非常な干渉、あらゆる圧力を加え、防碍、抑圧の果は、日本との戦争にまで持ち込まな買ったであろうか。そうした場合、英、仏、露のヨーロッパ列強は必ずこれに介入し、彼我、如何ように分れ、勝敗いづれに帰そうとも、その勢力はアジアに扶植せられ、アジアは彼等の壇断に帰し、日本の命運も予測し難い事態に立ち到りはしなかったであろうか。

(難波江通泰,「布哇王國皇帝の明治天皇との御密談について-大東亞共榮國の首唱-」,p.139-141)

 

文献には続きがあり、著者は縁談以外に、カラカウア王と明治天皇がどのような御密談をなされていたのかをさらに追求していました。

 

その中で『明治天皇紀』(明治天皇紀 第5とみられる)引用もされ、よりカラカウア王の西欧諸国に対する考え方が露わになっていくのでした。

 

皇帝、曰く、「今次、巡遊の主旨は、多年希望する所の亜細亜諸国の聡明を起さんとするに在り。欧米諸国は、只、利己を以って主義と為し、他国の不利、他人の困難を顧みることなし。而して、其の東洋諸国に対する政略に於いては、諸国、能く総合し、能く協同す。然るに、東洋諸国は、互に孤立して相援けず。又、欧州諸国に対する政略を有せず。今日、東洋諸国が、其の権益を欧州諸国に占有せらるゝ所以は、一に此に存す。されば、東洋諸国の急務は、総合同盟して東洋の大局を維持し、以て、欧州諸国に対峙するにあり。而して、今や、其の時機、方に到来せり。」と。

(難波江通泰,「布哇王國皇帝の明治天皇との御密談について-大東亞共榮國の首唱-」p.147 『明治天皇紀』を再引用

 

 

ハワイにやってきた日本人の移民の誠実さ、ひたむきさによって生まれた日本国への信頼感が、“ハワイを安泰に導いてくれる”という結論に達し、カラカウア王は縁談を持ち込んだのでした。

 

そして、自国の安泰のために西洋諸国に虐げられてきた東洋(アジア)の国々と団結し共に戦うことで、独立国ハワイの西洋に屈しない姿を世界中に轟かせたかったのです。

 

ハワイの王が日本に決めたきっかけは…移民でした。

 

密談では、カラカウア王から天皇へ“亜細亜諸国の総盟の長は日本であってほしいと”胸の内を話した記録が残っています。

 

それほど日本が頼みの綱だったのです。

これはハワイに日本の移民が初上陸して20年後のお話でした。

 

では、日本人がハワイの地へやってきて、労働者として生活をしていく上で、

なぜこれほどまでにハワイからの厚い信頼を獲得することが出来たのでしょうか。

 

次の記事からやっと、移民史について触れていくヨ!

続く。

 

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(だいたい、こんな字。 ひとこと:体術習いたいなあ。)

 

 

文献:

「ON THE NORTHWEST Commercial Whaling IN THE Pacific Northwest 1790=1967」

by ROBERT LLOYD WEBB  

UNIVERSITY OF BRITISH COLUMBIA PRESS・VANCOUVER 1988

https://books.google.co.jp/books?id=Be_aof1XlwsC&dq=Equator%E3%80%801819%E3%80%80Hawaii&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

 

著者 難波江通泰 雑誌名 國士舘大學武徳紀要 発行年 1987年3月

論文名 「布哇王國皇帝の明治天皇との御密談について-大東亞共榮國の首唱-」

紀要論文 出版社 國士舘大學武道徳育研究所

https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=7819&file_id=189&file_no=1

 

 参考文献:

編集 ハワイ日本人移民史刊行委員会 発行日 1964年4月20日

書名 『ハワイ日本人移民史 A History of Japanese Immigrants in Hawaii』

出版社 ハワイ日系人協会

 

原本は 編著 木原隆吉 発行日 不明 書名『布哇日本人史』 出版社 東京文成社

作成 沖縄県立図書館 複製 (有)沖縄マイクロセンター

書名 『比嘉春潮文庫 布哇日本人史 第一巻 布哇事情概論 第二巻 日本人社会變遷史』

 

 

【神様がやってきた!】

記事名 ハワイ昔話03/カメハメハ歴史に登場 掲載日 2018年6月8日

制作 HIschoop!ハワイスクープbyLeaLea 

https://www.hawaiiscoop.com/?p=49768

 

【西洋人がもたらしたもの】

著者 目黒志帆美 公開日2015年4月10日

論文名「王権とフラ-ハワイ王国における先住民文化政策-」

博士学位論文 東北大学機関リポジトリTOUR

https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=71705&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

 

捕鯨船がやってきた!!!!】

「Why was the Industrial Revolution British?」 by Robert C. Allen ,15 May 2009

Professor of Economic History at Oxford University 

 翻訳 COE研究員,田中清泰

http://gcoe.ier.hit-u.ac.jp/vox/009.html

 

【緻密なワザ】

【世界一周をしたハワイの王様が日本の天皇陛下に縁談を持ちかける!?】

著者 難波江通泰 雑誌名 國士舘大學武徳紀要 発行年 1987年3月

論文名 「布哇王國皇帝の明治天皇との御密談について-大東亞共榮國の首唱-」

紀要論文 出版社 國士舘大學武道徳育研究所

https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=7819&file_id=189&file_no=1

 

 

 

家族ってなんだろな

 

 

18歳。友達がイラスト展のモデルになった。

 

沖縄県那覇市にある有名な国際通りの中道を辿っていくと、そのギャラリーがあった。

話によると、元の建物はカフェだったらしい。

 

ギャラリーへつづく階段を駆け上がった。高鳴る鼓動。

目を閉じて一つ深呼吸し、お客さんを招き入れるように開いたドアに一歩踏み出してみると、そこには、窓から注ぎ込む東の空の光に包まれた空間が広がっていた。

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(大人になるって、どういうことなんだろう。)

 

 

ハダカの少女、制服の少女、艶かしい少女、怠惰な少女、脆くて強い少女、、

イラストに描かれた友達の姿は、驚くほど彼女だった。

 

細くて力強い一本一本の線が友達そのものだった。

視線も、表情も、顔の角度も、雰囲気も、タイトルでさえ。

 

ただ、ただ、驚いた。

 

友達の素性を探るドキュメンタリー映像作品が、プロジェクターから映し出された。

あるインタビューが、私の記憶に焼きついたのだ。

 

−−セナが一番好きなのって?

“好きって、人以外…です…? わかりました(笑)

家族みんなでテレビを見ているとき、が一番好きなときかなあ。

リビングで、テレビの前にソファーがあって、真ん中にセナ。ソファーの右側と左側に、双子の弟が座ってセナを囲んでる。それで、ママがおっきい机のあるイスに座ってて、パパが、こう、だらアーって…、人をダメにするソファー(笑)に座って、みんなでテレビ見ながら、笑いあったりするんです。”

 

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(そういって、映像の中の彼女はケーキを頬張ってた。)

 

 

私にだって。

もちろん私にも家族はいる。両親もいるし、兄弟だっている。

家族みんなで一緒にご飯も食べるし、テレビも見るし、不自由ない生活を送ってる。

 

だから、私は幸せ者なのだ。 

でも、この“幸せ”は、今の私にとって“物理的に恵まれた”という意味。

 

私は、彼女みたいにココロで“幸せ”を噛み締めたい。ただそれだけ。

 

 

ココロの距離

父親が新しいお父さんになって、7年経つ。

私も父親もここ数年はお互いに喋らない。というか、会話する内容が無い し、彼に対して若干の苦手意識有り。

 

最高に気まづいし、気持ち息苦しい。

テレビ見るなんてもってのほか、顔を合わせたくなくて、結局、私の部屋にいるしかない。

 

そうやって私は父親と歩み寄ることから逃げてる。

そんなことしてても、ココロで家族の幸せなんて噛み締められないの知ってるくせに。

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(みんなどうやって距離縮めてるん、、、)


 

 

ある日、洗濯物をたたみながらテレビを見てると、お昼の情報番組で“離婚しない夫婦”の特集が流れてきた。

番組によると、離婚はしてないけれど、ココロが離れあってもなお同じ屋根の下で住み続ける夫婦の形があるらしい。

 

その理由はたくさんあった。

 

“子供に迷惑かけないように、子供に寂しい思いをさせないように、社会的地位を失わないように、離婚にパワーを割くのがめんどくさいから。”

 

子供は親を選べないし、親は子供を育てる責任がある。ってよく聞く言葉だよネ。

 

家族の形に正解なんて無いからこそ、もっとも幸せになれる方法として

結婚する・しない、離婚する・しない

単純な二択だけどどうやら思考をすごい巡らすらしい難しい二択でもあるんだなあ。

 

私、すごく思うのが、家族に対して、その時に選んだ自分の選択が当たっていたのか、間違っていたのか、これにずーっと囚われちゃうのがすごくもったいないってこと。

(ずーーーーーーーーーっと囚われることが、ね!)

 

こういうことを考えるのって、大抵、“ああ、こうしとけばよかったア!!”って過去を悔やむときだから。なんども自分自身に落胆ばっかしちゃわないで、“ああ、次は、こうしながら過ごしてみよう”って切り変えなくっちゃね。

 

私たちは未来を生きるんだから。

 

ああ"!!!!早く大きくなって、一人暮らししたいなア!!!!

お家に帰りたく無いなア!!!!!!!

よし、進路をどうにかしよう!!!!

 

こんな具合に。

 

 

さいごに。だいたいハタチ。

親の了承がないと〜 っていう決まりが、子供でもなく大人でもない、日本中・世界中のだいたいハタチ達の身をまだ自由にさせてくれないの、ちょっと辛い。

 

最近はね、スーパーでの試食を断られちゃったの!

お店側が万が一、未成年一人で食べてアレルギー起こしちゃ、店の責任になっちゃうからだと思う。

 

責任、か。

 

沖縄の移民 その1

 

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こんにちは。大きくなったら、彼氏から真っ白なバスローブをプレゼントされて身にまといたい願望がある、だいたいハタチです。そして、あわよくば喜んでいる姿を写真好きな彼に撮られたいです。(いない)

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だいたいこんな顔

 

 

 

沖縄といえば海。二時間の散歩は体にも心にもいい。

沖縄生まれ、沖縄育ちのだいたいハタチ。

沖縄といえば青い海、白い砂浜、照りつける太陽をイメージすると思いますが、じつはその通りなんです。大正解。

 

ところで、いきなり、私の心に残る海の思い出を紹介したいです。

高校3年生の夏休みに、すごい暇で暇でお家を飛びだして、人生で初めて片道2時間のお散歩を決行したことがあります。

 

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(あの日、私は世界でいちばん美しい夕焼けを見た。)

海のそばをひたすら灼熱の太陽に照らされながら道を歩き続け、喉がカラカラに乾いたあのとき、忘れもしない出会いがありました。

 

道ゆく人に挨拶しながら突き進んでいくと、道路でサーフボードを洗うご主人と目が合いました。察したように、甘くて酸味のあるシークヮーサージュースを出してくれました。(太陽に焼けたイケメンな救世主でした。)

 

ご主人の正体は、奥さんと沖縄に移住してSUPという水上の遊びのインストラクターをやりつつ民泊を運営している方でした。

いただいたジュースをゴクゴクと音を立てながら飲みほし、お礼に、何やら忙しく準備しているお二人のお手伝いをしました。

 

二人は”夕方にSUPをこぎにやってくるお客さんと、宿泊してくるお客さんをを歓迎するために、準備している”そうです。

 

夕方。

のんびり海に浸かりながら、奥さんと海のなかで沈んでいく夕日を眺めつつ、隣で旦那さんがお客さんにSUPを楽しんでいました。

 

SUPをしながら、民泊をしながら、ジャムを作って、旅もする。

好きなことをやりながら生きている奥さんの夢は、”働かないでお金を稼ぐこと”でした。

 

この出会いをきっかけに、私は将来、ジャーナリストとして、興味のある分野を探求しながら、ライターとして文字に起こして、おもちゃをクリエイトしつつ、デザインもしていって、彼氏からバスローブをプレゼントされたいなあって思うようになりました。

 

皆さんもぜひ沖縄にくるときは、2時間散歩してみてください。運が良ければ、あの夫婦に会えるかもしれません。

 

ただし、沖縄の魅力はそれだけではありません。

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(実は明確な区別はなく、曖昧)

沖縄本島を北部、中部、南部というふうに三分割すると

北部にはヤンバルクイナなどの固有種や天然のビーチなど”沖縄の自然”

中部はかつてアメリカの領土だった歴史が今なお残る”アメリカン”な側面、

南部には琉球王国時代の遺跡や文化が残っている”文化的な沖縄”が存在します。

 

 

 そんな琉球列島の中のひとつのシマ、沖縄本島でさえ地域ごとに特色溢れる不思議な県なのですが、 ”国土面積のたった0.6%を占める沖縄に米軍基地の70%が集中している” という事実をご存知でしょうか?

 

 

基地のシマ沖縄。その割合は、0.6のなかの70なんです。

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参考 https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/sugata/begunkichi.html

 米軍基地の施設を負担している市町村に色を塗ってみました。上下二つの地図を照らし合わせてみると、北部や中部に集中していることがわかります。

 

私は生まれも育ちも沖縄なのですが、米軍基地のない地域ですくすく育ってきました。どこなのかは秘密です。

 

実際のところ、ニュースで見るような基地前で抗議している様子を見たことがありません。(なぜなら、基地のない地域で育ったからです。)

 

近くに住んでいる住民の気持ちでさえ想像できませんでした。(なぜなら、以下略)

 

テレビで抗議活動の報道や、騒音が何デシベルかという報告を見るたびにどこか遠い世界の話なのではないかと思っていました。(n 以下略)

 

しかし、私、だいたいハタチはそして身をもって痛感するのでした。

2018年末、あるきっかけで、基地負担している市町村へ引っ越すことになったのです。

 

 

基地とは疎遠の生活から一転、驚きの日々でした。

 

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(本当に、世界が違ってて驚く。)

基地のある暮らしがどういうものか知りたくて、過去に知り合いに話を聴きまくったこともあります。

 ・基地の境界線として佇むフェンスに”銃弾が飛んでくるので注意” という注意書きがあるが、車通りの多い道のそばなので、よけようがない。もしも銃弾が飛んできたら最悪の場合も。

・授業中に飛行物が上空を通過するようなことがあれば(たとえ行事の運動会でさえも)騒音がおさまるまで授業を中断しなければなく、とても集中できるような環境ではない。

………

 

実際に近くに住んでみて、ただ漠然と”基地に影響され続ける人”ではなく、当事者として基地はどうであるべきなのか考えるようになりました。

2018年末といえば、全国的にも沖縄の基地問題に関連したニュースが増えていったと思います。その鍵を握るのが、”普天間基地辺野古基地を巡る問題”なのです。

 

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(大枠の図解)

沖縄の普天間基地辺野古移設を巡るこの問題は、20年前から繰り広げられており、とても根深い話です。わかりやすくまとめてくださっている方がいるので、貼らせていただきます。

  

▽基地に関する記事

bilingual-news.com

 

 

沖縄の知事選挙。

沖縄の県民投票。

私は一人の県民として、当事者として理解し、考え、自分の選択した行動を信じました。

 

2018年12月8日世界中で大きな変化を生んだこの日。

ご先祖様が沖縄からハワイへ移住した県人4世の彼を筆頭に、アメリカのホワイトハウスに沖縄の基地移設の中止を求める署名活動が開始されました。

 

ホワイトハウスへの署名運動に関する記事

hbol.jp

 

 

移民の話。ここが本題なの。

今回のタイトルの”移民”。

第一次世界大戦後の貧しい暮らしから抜け出すために、ウチナーンチュのご先祖様たちが沖縄からハワイ、ブラジル、フィリピンなど世界各地に飛び立っていったのが移民の始まりと言われています。

この頃の沖縄は、毒がある食べ物にも手を出さないと生きていけないほど困窮していました。(後に、ソテツ地獄と呼ばれる)

 

基地問題の話が、移民に繋がったのは、

彼ら県系人が、世界各地で1世が残した沖縄の文化を継承し、沖縄が窮地に陥ると、手を差し伸べ、声を上げてくれる大切な世界のウチナーンチュだからなのです。

 

沖縄の歴史を振り返ってみると、

沖縄では第二次世界大戦中に、”地上戦”と呼ばれる戦いがありました。

たくさんの女性、子供、高齢者、兵隊、アメリカ兵がこの地沖縄で亡くなりました。

この歴史を決して忘れさせないかのように、地中深くに埋められた不発弾たちは、私たちに見つかる日を迎えるまで、じっと身を潜めています。

 

戦後、沖縄の自然が残る北部の木々たちを伐採し、人々は家を建てました。

それでも、半年に渡る戦争によって食べるものはすでに食べ尽くされ、人々を今度は飢餓が襲いました。

そんな中、ハワイに飛び立った移民たちが沖縄のために大量の豚を送ってくれたのです。

 

▽ハワイの移民に関する記事

www.archives.pref.okinawa.jp

 

 

沖縄の味方は世界中にいるって、どこかの誰かが言ってた。

実は私、だいたいハタチは過去に、移民の歴史やハワイ文化を学ぶためにハワイに2度留学した経験があります。

 

現地で出会った県系人は "I'm Japanese" ではなく ”I'm Okinawan" と、沖縄に誇りをもっており、ご先祖様の出身地をもとに、どこがルーツなのかまで教えてくれました。

住む場所は違えど、気候や人のおおらかさ、かつて沖縄もハワイも王国だったという歴史など、取り巻く環境がより一層沖縄とハワイの繋がりを深くしていったのかもしれません。

 

沖縄のポーク玉子(おにぎり)とハワイのSPAMmusubi

日本のマグロ丼とハワイのpokebowl

日本の盆踊りとハワイの盆dance

 

各国の人々が混じり合うハワイで、日本と類似しているものがあるのは、私たち日本のご先祖様がハワイにもたらしたものなのか、それともたまたま偶然の一致なのか。

もっと追求すべきなのかもしれません。

つづく。

 

 

*この記事はあくまでも辺野古基地、普天間基地問題に対しての意見ではなく、沖縄の移民を追求していくという内容です。

 

 

 

 

 

はじめまして。

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こんにちは。大きくなりたくて ”だいたいハタチ” と名乗ってる18の女です。

大人になったら、デザインしながらおもちゃクリエイターになって、ライターさんになりつつ日本中世界中を見てまわりって過ごしたいです☺︎

よろしくお願いします!